| 日本メイド史 |
■【日本メイドの黎明】 (明治初期) 日本のメイドの歴史は明治時代にさかのぼる。 日本全体が文明開化へと走り始めたこの時期、皇族や華族をはじめとする上流階級は競って洋風のライフスタイルを導入し、洋館を建て、洋服をまとい、ナイフとフォークを使いはじめた。そして、家の中をすべてこの目新しい様式に対応させるためには、調度品や衣装といったハードだけでなく、使用人というソフトも揃えなくてはならなかった。洋服にアイロンをかけることのできる使用人、紅茶の入れ方のわかる使用人が必要不可欠であったのだ。しかし、家具や食器は輸入すれば手に入れることができるが、青い目のメイドを何十人・何百人も輸入するわけにはいかない。また言葉が通じず意志疎通をはかるのも大変だ。そこで、洋風の生活技能・生活習慣をも身につけつつも、日本語を解する日本人の使用人が求められたのである。こうして日の丸メイドが誕生し、日本メイド史が始まったのである。 メイド育成はもっぱら政財界の有志が欧米人のメイドを招聘し、その下で日本人女性を働かせるかたちでおこなわれた。しかしこの私塾体制では育てる数に限界があるため、森有礼が発起人となって明治19年に本郷の弥生町に東京女給学院が設立された。同年、一期生42名が入学し、日本のメイドの歴史がいよいよ本格的に幕を明けるのであった。 この学校のカリキュラムには、欧米の歴史の講義や、当時は特殊能力であった語学(英米語・独逸語・仏蘭西語)も組み込まれており、さらに、成績優秀者は学校支援者のポケットマネーでフランスの提携校に一年の留学ができるというシステムも備えていた。このことからわわかるとおり、メイドは単なる使用人ではなかった。華族の子弟に洋風のマナーや価値観を覚えさせるための指導係でもあったし、外国語を使用できない雇い主と外人とのあいだの通訳を兼ねることもある、突出した知的能力を持つ専門職であったのだ。 そして、一般人には理解不能なハイテクとしてそびえたっていた欧米文化をやさしくかみくだき、日常生活の局面で日本に普及させることに貢献したのである。 ■【日本メイドの制度化と定着】 (明治中期から大正) 東京女給学院に続き、明治25年前後に集中して日本各地にメイド学校が設立された。学校が設立されるということは、メイドの供給が安定するということであり、また、どうすればメイドになることができるかの道筋が見えるようになるということである。このことにより、メイドは「ぽっと出の」イレギュラーな存在から、職業のひとつとして日本社会にその位置を占めるようになったのだ。 なお、これらの学校の中では性格の差も出てきており、純粋なメイド学校といえないものも含まれていた。花嫁修業のための学校を兼ねるメイド学校である。メイドとして働くためではなく、夫人として家庭に入るための教育を施すのであった。これらの学校では教える内容がダウングレード(平易化)される場合が多く、また、メイド業とは関係のない料理技術(しかも和食)や華道や茶道まで教えてしまう「ちゃんぽん」なところもあった。(注:よく誤解されるが、本来のメイドは料理を仕事としない。食事の手順や料理の種類、ワインや紅茶の銘柄と注ぎ方については学ぶが、切ったり火を通したり味をつけることは学ばない。調理専門のコックが別途雇われることが普通であった)。 また、これ以外の純粋なメイド学校も2グループに分かれていた。東京女給学院のように、資産家が中心となって設立された学校と、修道会が設立したものの二つである。修道会は、貧民層の婦女に職業能力を身につけさせる社会事業としてメイド学校を選んだのである。当時は女性が学べる学校が少なく、かつ、この学校は授業料がほぼ無料であったため、入学試験には貧民層の中でもトップクラスの優秀な人材が殺到した。またこの系統の学校にはオルガン演奏や料理も教えるという特徴があった。前者は賛美歌演奏のためであり、後者は、修道女がみずから調理することにならい、料理は本人が生きていくために必要な技能だとみなしたからである。 さて、学校卒業生の活躍する範囲も広がっていった。各地に欧米形式のホテルが誕生したことから30年代にはホテルメイドとして就職するケースも増えてきたのだ。また、フランス料理店のウェイトレスとして雇われるケースもでてきた。前述の東京女給学院の例でいえば、明治41年の進路資料を見てみると、卒業生80名のうち4名が日光の金谷ホテル、2名が箱根の富士屋ホテルに就職している。また、とくに修道会系の学校においてはメイド以外の進路を選ぶ卒業生が少なからず存在し、女子師範学校に編入学したり、語学力を買われて大学の研究助手として採用されたりしたのであった。 このころには、メイドの職業は広く認知され、その名前が人々の口にのぼるようになった。メイドは最先端の舶来文化に囲まれて暮らせるため若い女性のあいだでたいへん人気のある職業であり、ステータスは高かった。漆黒のメイド服にブーツ(当時はブーツが主流であった)をはいて街を歩けば羨望のまなざしが集まったという。戦後一時期のスチュワーデスのステータスに似たようなものであったと考えればよいであろう。 またメイドの全体数が増えたことによりメイド市場(しじょう)が成立したことも忘れてはならない。たとえば東京女給学院には求人掲示板が設置され、全国から送られてきた求人票が掲示され、主人を選ぶことができた。また逆に、学芸発表会と称する在校生の顔見せがしばしばおこなわれ、資産家が大挙して押し寄せ、眼鏡にかなうメイドを探したという。このようにマーケットのシステムが徐々に構築されていったのである。 ■【日本メイドの発展と拡散】(昭和初期) この時代を舞台に川端康成が『伊豆のメイド』を著し、天城の富豪邸宅に勤めるメイドと一高生の悲恋を描き、彼の代表作となっていることは諸氏の周知するところである。 そのようにメイドは日本社会に着実に根付いていったが、並行して好ましくない現象も生じた。メイドという概念の拡張である。メイド学校を出たわけでもないただの女中・下女をメイドと呼ぶ習慣がでてきたのだ。良いイメージのあった「メイド」という呼称がねらわれ、勝手に使用されたのだ。そのため、メイドという単語の中に、ハイステータスかつ優秀なメイドと、ローステータスかつ低能なメイドの両方が包含されることとなった。後者は、それこそ、疲弊した農村から身売り同然で主人の家に連れてこられた女の子であり、その後の教育も満足におこなわれず、メイドと呼べるような技能はまったく持ち合わせていない。このニューカマー(新規参入者)により「メイド」は玉石混淆の状態になり、従来のメイド=能力がある者というリンケージが崩壊、「メイド」の資格名としての輝きは薄れてしまうこととなった。 ■【日本メイドの衰退】(戦後) 戦後は、メイドに冬の時代が訪れる。メイドの人口が減り始め、クビになるメイドが続出した。しかしこれはメイド個人の不幸を意味するものではない。大多数のメイド個人はむしろ待遇が改善され、あるいは、より高給の別の職業に転職し、春を迎えたのである。 この変動のいちばん大きな理由は、財産格差の減少である。使用人を雇う場合、主人と使用人とのあいだにおよそ10倍以上の収入格差があることが条件となると言われている。ところが、戦後日本はこの収入格差を敵とみなし、財閥解体・地租改正・相続税の高率化・労働法の整備・社会福祉制度の充実などにより徹底的に平準化をはかった。その結果、旧来の主人層の収入は減り、同時に旧来のメイド層の賃金水準があがり、天井が低く、床が高くなり、使用人を雇うための収入格差が存在しなくなってしまったのである。 ![]() さらに、義務教育が充実し、高校進学率が上昇、大学に入ることが当たり前になったため、学歴差によって生じていた賃金差が解消され、この現象を加速させた。 また、核家族が進んだことも見逃せない。10人家族がメイドを雇うのと、4人家族がメイドを雇うのとでは負担の度合いが異なる。一族で住む故郷の家を離れ、都市で夫婦と子供一人で暮らす小家族に、とうていメイドを雇う資財はないのだ。 ■【日本メイドの終焉】(1960年代) メイド人口の急減は、やがてメイド養成機関にも変調をもたらした。中学生の進学希望先として商業高校などの職業高校は敬遠され、普通科高校の人気が高まった。大学進学も視野にいれつつ、職業の選択を将来へともちこす生徒が増えたからである。1964年には名門である東京女給学院が生徒数の減少から閉鎖を決定、関係者に大きな衝撃を与えた。 1960年代は学生運動と大学闘争の時代でもあった。1968年には、安田講堂立てこもり事件を模して、佐世保にあった白鳥(しらとり)メイド専門学校にて生徒の一部が立てこもり未遂を起こすという、前代未聞の事件が発生した。一年生(高校一年生に相当)の一部が近隣の県立高校の男子学生グループに触発されて決行したものであったが、この男子学生グループもともに校内に立てこもったため、「生徒以外の人間が校内にいる」と学校側が警察に突入を要請、事件は一日で解決した。しかし、すべてが丸くおさまったわけではなく、その一ヶ月後には事件のリーダーの「ご主人様なんて要らない」と題する手記が朝日新聞全国版に掲載され、その翌々日には社説がメイドを論じ、全国の注目を集めた(68年10月8日号)。 社説はまず、「メイドは主人の命令にしたがう奴隷である」と前置きしたうえで、政治学者丸山真男の言説を引用する。「近代日本では、全国家秩序が絶対的価値の体現者である天皇を頂点として連鎖的に構成されていた。そのため、より天皇に近い上級者が、その周囲の下級者の行動を規制するしくみとなっていた」。それは具体的には「家父長制は天皇制のミニチュアであり、妻や子供、家庭内使用人はミニ天皇である家長に服従しなくてはならなかった」ということである。これは憎むべき「天皇制的精神構造の病理」であるが、「おおもとの天皇制が象徴天皇へと切り替わった今も、家父長制という旧時代の残滓は散見され」、我々はそのような「家庭内の身分制」をすべて破壊すべきだと論じている。 後半では、女性は社会に進出しなくてはならないという原則から論理が展開していく。「女性の意欲が反映され、その能力が正当に評価される、真の男女平等社会を実現しなくてはならない」。メイドという仕事は女性を家庭にしばりつけ、女性の自立をさまたげるものであり、「メイド学校は何も知らぬ少女を旧体制に送り込む機関であり、女性解放の流れに逆行する学校である」。そして社説の最後は以下のように結ばれている。「共産圏では家庭内労働者をなくすことに成功している。我が国においても、人間と人間のあいだの格差をなくし、構成員が対等な関係でつきあえる家庭をめざそう」。 では、この社説の問題を指摘していくことにしよう。 まず、メイドは奴隷ではない。たしかに主人は「命令」を下すが、それは仕事を依頼する立場である以上当然のことである。「何をしてほしいのか」を伝えなければメイドは働くことができない。「今日はトンカツが食べたいなぁ」と指示して何が悪いというのであろう?。別に人間の尊厳にかかわる要求をだしているわけではないのだ。 また、メイドと主人の関係は主従関係ではなく、カスタマーとプロフェッショナルの関係である。仕事に応じて給料が支払われるのであり、また、メイド市場(しじょう)があることにより双方向のマッチングをはかることが可能になっている。主人は気に入らないメイドをクビにすることができるし、同時に、メイドもダメな主人を捨てて別の主人へとくら替えすることができるのである。マーケットによって流動性が保証されている以上、忠臣蔵のようにひたすら忠義をつくすわけではなく、がまんできない場合はドライに主人を捨てるケースもあったのだ。 後半部分に入ろう。まず、家事というものは絶対に無くならないものであり、誰かが家事をこなす役をになわなくてはならない。ならば、女性が社会進出する時代には、むしろその穴を埋めるために家事手伝いの需要が増え、いわば前提としてメイドが必要とされるのではなかろうか。 またこの社説は「女性は社会で働かなくてはならない→女性が家庭という場面で働くことは悪である」という論理展開をしているが、それでは家事を仕事にしたい女性はどうなるのであろうか?。この論理は、その道を閉ざし、職業の多様性を認めようとしない主張ではなかろうか。 全校生徒わずか100人たらずのこの小さな学校は、全国の耳目を集めながらゆっくりと崩壊していった。不適切な報道によりメイドについての悪いイメージが蔓延、生徒の半数が安全策をとって普通科高校に転校した。残りの生徒と全教員は学校の存続を希望したが、その生徒数では経営が難しく、かつ、入学希望者の募集も不調に終わったため、事件の1年半後、深い傷を抱えて廃校へと至った。 廃校の半年前、雑誌社が校長へのインタビューをしている(『文芸春秋』69年9月12日号)。そこには、メイドの栄華と衰退が凝縮されている。 校長は1918年生まれの元メイドである。満州国の首都新京にて新興財閥のオーナー一家に仕えていた。邸宅には部屋が30もあり、庭に噴水もあった。一家からの信頼は厚く、家族が日本に一時帰国しているあいだは、邸宅のすべてを彼女が仕切り、総勢8名の使用人の監督や、出入り業者との交渉、留守を知らぬ来客への応対などすべてを任された。またオーナーが映画好きであったため、邸宅には満映のスターが常に出入りし、銀幕の主人公たちの歓談に彼女が加わることもしばしばであった。仙台の修道会系メイド学校を経てメイドになった彼女は、引退後、メイドという仕事のすばらしさを多くの少女にわけあたえるために佐世保に学校を開いたのであった。 しかし、彼女がメイドに見た栄光は、60年代の日本人には共有されていなかったのである(とくに若い世代のあいだでは)。これは戦後メイド人口が減り、メイドが人々の目に触れなくなったことが原因だが、加えて、昭和初期のメイド概念の拡張の影響も大きい。ローステータスなメイドに対する悪評を、ハイステータスなメイド(およびその養成学校)もかぶり、とばっちりをうけたのだ。それは予期せぬ敵との戦いであり、困難なものであった。たしかに社会構造の変化からメイドは衰退方向にあったが、この佐世保の事件はその幕切れを早めてしまった。 校長はインタビューの中でくやしさをにじませる。「まだメイドとして働いたことのない娘さんに、メイドの何がわかるというのでしょう。メイドを軽々しく云々されたくありません」。そして最後にこう述べている。「古いものがなぜいけないのですか?。時代遅れというだけで、どうして糾弾され、ののしられなくてはならないのですか?」 ■【メイドもどき】(1990年代) 1970年代に入るとメイドの人口はほぼゼロになったため、1980年以降は、各種調査の調査票から「メイド」という職業名がそもそも削除されてしまうこととなった。メイドは「その他の職業」という暗黒のジャンルに放り込まれてしまい、その正確な把握はもはや不可能となったのだ。 ある学者は、1990年代に入ってからメイドが復活しているという説を唱え、関係者の関心を集めている。しかし、彼がカウントしているのは家事手伝いやヘルパーであり、これらをメイドと称して、かつてのメイドと同じものだとするのは、次の二つの点で無理がある。 まず、契約が個人対個人ではなくなっていることである。昔はメイドと主人が直接契約をかわすものであったが、現在はメイドの派遣会社に対して双方が契約をかわすという、会社を中間にはさんだ形になっている。つまりメイドはサラリーマンであり、主人よりも前にまずは会社に所属、仕えているのだ。そして、すべての局面で会社が出しゃばってくるため、主人とメイドは関係の深めようがない。 また、住み込みの率がきわめて低いことがあげられる。昼間だけやってきて、3時間ほど働いたら次の家にいくという巡回型の家事手伝いが大半なのだ。これは果たしてメイドと言えるのであろうか?。 もちろん、そのヘルパーたちは誰もメイド服を着用しない。給料も安い。ワーズワースを読む語学力もない。そしてなにより、80年近くにわたって続いたメイドの文化をまったく継承していない。彼女たちは日本に先輩たちがいたことすら知らないであろう。これは、メイドじゃない。 ![]() ■【さよなら、メイドさん】 日本のメイドは消滅した。 むかし、さまざまな職業があった。石炭を掘る坑夫がいた。人力車をひく車夫がいた。紙芝居屋がいた。それらと一緒にメイドは消えていく。ある夕方、メイドは停車場からたった一人で路面電車に乗り込む。巨大な夕日が落ちる街には暗がりが押し寄せ、メイドはどこともしれぬ場所へと去っていく。 かつて、海が見える丘の上に、メイドの学舎(まなびや)があった。有能なマネージャーとなるべく日々勉強にはげみながら、ときには机にほおづえをついて、やがて自分たちが働く宮殿のような邸宅を想像してみることもあったであろう。あるいは、同級生と、どういう主人に仕えたいか、謹厳実直な軍人一家が良いか、心優しい芸術家が良いか、好奇心旺盛な貿易商夫婦といっしょに世界をまわるか、不安と期待を胸にみたしながら語り合ったであろう。彼女たちが未来に投げかけたその声は、ながいながい時を飛び越えて、今、耳をすましているあなたに届くはずである。 (大島伸啓) |